2016年10月アーカイブ

2016-10-31_194650日本の石(国石)に決まったひすいはケイ素、酸素、アルミニウムなどからなる岩石だ。宝石としてよく知られているのは緑色だが、白や青、黄色もある。日本鉱物科学会が9月、日本らしさや知名度、美しさなどを基準に選定した。

新潟県糸魚川市で出土したひすい製の「たたき石」は約7千年前の縄文時代にハンマーとして使われたもので、世界最古のひすいの利用例という。勾玉(まがたま)や宝飾品、石針などの材料にも使われるなど古代から日本人となじみが深く、「ひすい文化」が成立していた点が特に評価された。

●「沈み込み帯」で生成

ひすいは「沈み込み帯」と呼ばれる場所だけで生成する。海底を移動する海側のプレート(岩板)が、陸地を乗せた陸側プレートの下に沈み込んでいる地域だ。

海側プレートが海溝から沈み込む際、運んできたさまざまな鉱物の堆積物が陸側に付着して剥ぎ取られ、「付加体」を形成。これが両プレートに挟まれ高温・高圧にさらされて多様な鉱物に変成し、深部ではひすいができる。

付加体は日本列島の骨格を形成し、ひすいは比重の軽い岩石とともに地表へ上昇する。日本のひすいが生まれたのは約5億年前で、世界最古という。

●水晶、金も候補に

学会は選定にあたって11種類の候補を選び、国民の意見を公募。ひすいとともに最終候補に残ったのは水晶、自然金、花崗(かこう)岩、輝安鉱で、いずれも日本らしい顔ぶれだ。

水晶は鉱物名ではなく、石英の無色透明な結晶のこと。美しく硬いため、縄文時代から装飾品や武器に使われた。2つの板状結晶が接合してハート形に発達したものは、日本式双晶と呼ばれて珍重されている。

かつて日本が「黄金の国ジパング」と呼ばれるほど大量に産出した自然金は、大判や小判でおなじみだ。今でこそ全身が黒っぽく見える奈良の大仏も、752年に開眼したころは表面が金で覆われていたという。

花崗岩は代表的な火成岩で石英や斜長石、黒雲母などさまざまな色の結晶が集まってできている。緻密で硬く、石材としては御影石とも呼ばれ、国会議事堂や東京都庁に使われている。

輝安鉱はレアメタル(希少金属)であるアンチモンの硫化物だ。日本刀のような形の結晶が1メートルもの長さに育つ。海外に愛好家が多く、日本産は世界的に知名度が高い。

このほか黄玉(おうぎょく)の和名で知られる宝石のトパーズ、古代人が矢尻などの石器に使ったガラス質の黒曜石、断面が花びらのように見える桜石なども候補に挙がった。

●1300種も

地域を象徴する「県の石」も日本地質学会が5月に決定。各都道府県にふさわしい岩石、鉱物、化石を選んだ。鬼押出し溶岩(群馬県)、佐渡金山の自然金(新潟県)、鳥取砂丘の砂(鳥取県)、鬼の洗濯岩(宮崎県)など郷土色豊かな石が勢ぞろいした。

世界で見つかっている鉱物約5200種のうち、日本には4分の1に当たる約1300種が存在する。これほど多様性に富んでいるのは、日本独特の沈み込み帯の影響だ。

日本列島の周辺は、陸側の北米プレートやユーラシアプレートの下に、海側から太平洋プレートやフィリピン海プレートが沈み込んでせめぎ合う複雑な構造になっている。

沈み込み帯の陸側では海側プレートが運んだ海水の影響でマグマが生じ、火山ができる。火山活動は変成作用で多くの種類の鉱物を生む。プレート運動は日本列島に地震や噴火をもたらす一方で、多彩な鉱物を育んでいるのだ。

2016-10-31_192023石炭から直接、天然ガスの主な成分であるメタンを作り出す菌を発見したと、産業技術総合研究所の研究チームが米科学誌サイエンスに発表した。これまで、酢酸やメタノールを原料にメタンを作る菌は知られていたが、石炭から生成できる菌は初めてという。

新たな資源として注目されている、地下の石炭層に含まれる天然ガス「コールベッドメタン」の生成にも、同じような働きを持つ菌が重要な役割を担っている可能性がある。

チームは石炭に含まれる主な成分の一つである「メトキシ芳香族化合物」という物質に注目。メタンを作る菌を11種類使い、この化合物とそれぞれ一緒に培養した。

その結果、深さ約千メートルから採取した「AmaM株」という菌とその近縁株が、この化合物からメタンを作れることが分かった。褐炭などさまざまな種類の石炭を培地に混ぜてAmaM株を培養し、直接メタンができることも確認した。

2016-10-22_10201421日午後に最大震度6弱の地震が起きた鳥取県は、これまでも大きな地震が繰り返し起きてきた地域だ。震源付近に活断層は確認されていないのに、なぜ、起きたのか。
気象庁によると今回の震源付近では、地震の約2時間前にマグニチュード(M)4・2の地震が起きたが、M4クラスの地震が繰り返しており、前震かどうかを区別するのは難しいという。発生後も震度1以上の地震が相次ぎ活発な地震活動が続いている。

鳥取付近は中国地方でも地震活動が活発な地域ととらえられてきた。政府の地震調査研究推進本部は今年7月、鳥取県や島根県東部を含む中国地方北部で今後30年以内にM6・8以上の地震が起こる確率を40%と発表している。

実際、過去にも大地震が起きている。1943年にはマグニチュード(M)6級の地震が2回起きた半年後、鳥取地震(M7・2)が発生して千人あまりが死亡。2000年の鳥取県西部地震(M7・3)では182人が負傷した。

なぜ地震が多いのか
紀伊半島から四国沖の南海トラフ周辺では、陸側のプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込み、プレート同士が押し合っている。

西村卓也・京都大防災研究所准教授(地震学)のGPS(全地球測位システム)データの解析によると、中国地方の日本海側は瀬戸内側より年3~4ミリ東にずれ動いており、ひずみが集中しやすい地域がある。西村さんは「鳥取は地盤が比較的軟らかくひずみがたまりやすい。今回の震源付近はここ数百年はM7クラスの地震が起きておらず、ひずみがたまっていたと見られる」と指摘する。

遠田晋次・東北大教授(地震地質学)は「山陰地方は常時、地殻がひずんでいる。地震がよく起きる地域が日本海側の内陸に帯状に広がっており、今回の規模の地震は起きやすい」と話す。

倉吉市で熊本地震並みの1494ガル観測
防災科学技術研究所は21日、鳥取県中部の地震で震度6弱を観測した鳥取県倉吉市で、瞬間的な揺れの強さを示す加速度が1494ガルだったと明らかにした。熊本地震とほぼ同レベルの強さという。

岡山県内で震度5強は16年ぶり 1923年以降では4度目
2016-10-22_105224鳥取県中部を震源とする21日の地震で、岡山県内では鏡野町上斎原、真庭市蒜山下福田で震度5強を記録するなど各地で激しく揺れた。

県内で震度5以上が観測されたのは、2000年10月に新見市などで震度5強の揺れがあった鳥取県西部地震以来16年ぶり。
震度4以上では、14年3月に伊予灘を震源とし、岡山市などで震度4を観測した地震以来だった。

岡山県内の震度5以上の地震は、気象庁のデータベースに記載された1923年以降では今回で4度目。このうち3度が山陰を震源としている。
今回の一連の地震で、気象庁は大地震を事前に知らせる「緊急地震速報」を県内で2度発表。
午後2時7分ごろの地震では県内全域、同53分ごろの地震は県北部が対象だった。県内での速報発表は、誤報を除くと過去に2013年4月(震源・淡路島付近)に例がある。





雲海に浮かぶ備中松山城父・真田昌幸が九度山で無念の最期を迎え、大河ドラマ「真田丸」はいよいよ終盤に入った。
「真田丸」はドラマのオープニング映像も印象的で、いくつかの城で撮影された映像にCG加工を加えて真田の城をイメージした映像になっているが、ロケ地の一つに備中松山城(岡山県高梁市)がある。

真田一族と備中松山城は全く関わりはないが、ロケ地に選ばれたのは備中松山城が標高430mに築かれた山城であり、真田氏が拠点とした岩櫃城(群馬県東吾妻町)を連想させたからだといわれる。現存する天守
備中松山城は全国の山城で唯一天守が現存する希有な城だが、備中松山城の登場シーンはぜっぶで六か所ある。
1.大手門北側で、備中松山城の特徴のひとつである自然の岩盤上に築かれた石垣で、いかにも天険の地に築かれた山城であることを連想させる岩盤部分をクローズアップし、実際にはない滝がCGで加えられている。
2.岩盤上の石垣と土塀も大手門北側で、漆喰塗りの土塀がCGで土壁に加工され、真田氏の六文銭の旗がはためく。
3.大手門跡で、CGで勢いある水の流れが追加されている。
4.大手門跡の石垣の上には土塀と木がCGで追加され、ここにも真田氏の旗が立てられている。
5.本丸下の段から見上げる現存天守で、天守北側の二重櫓へ通じる通路から撮影されたもので、漆喰塗りの土塀が土壁のように加工されているだけで、現地で見上げる風景とほとんど変わらない。
6.現存する天守の二重目の屋根で、加工されずそのまま使われている。

大手門跡備中松山城は現存する12棟の天守の中で唯一の山城だ。
山城とは、山全体を城地にする城で、中世の城は山城が主流でが、近世になり天守を備えるようになると、多くの城は小高い丘や平地に築かれるようになる。
従って、あえて山城を選んで天守を築くことはほとんどない。

山城なのになぜ備中松山城に天守があるのか。
それは、中世の城から近世の城へとリフォームされた新旧混淆の様式の城だからだ。大手門跡付近の石垣
鎌倉時代に小さな砦として築かれ、戦国時代に一大要塞化し、戦国時代には備中兵乱と呼ばれる激戦の舞台ともなって落城も経験し、城主の入れ替わりを経ながら増改築されてきた。現存する天守や二重櫓は、江戸時代に入り1683年(天和3年)に備中松山藩二代水谷勝宗藩主・(みずのやかつむね)により建てられたとされている。

備中松山城のある標高約480メートルの臥牛山(がぎゅうざん)は、北から大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰から構成される。
戦国時代はすべてが備中松山城だったが、そのうち小松山だけが改造されて現在の備中松山城となった。
大松山・天神の丸に残された中世の姿も共存するのが大きな魅力で、二重櫓北側の高さ5~6メートルの堀切(山の尾根を分断する堀)を越えると、ほかの城へワープしたかのように別世界が広がる。

1873年(明治6年)の廃城令によって廃城になったが、あまりの高所のため破却費用が捻出できずそのまま放置されたために、山上で木々に守られ、戦災も免れてひっそりと生き残ることができた、奇跡のドラマチックストーリーもある、神秘的な城といえる。

二重櫓へと通じる通路
天守は二重二階で、高さは約11メートルと現存する天守のなかで最小だが、日本最高所の天守からの眺望は一見の価値がある。
西側から見ると二重三階のように見えるのは、かつて渡櫓(わたりやぐら)という廊下のような建物が天守に直結して、その連結部だけが残っているためだ。
付櫓(つけやぐら)のように見えるのも、扉のない素朴な入り口になっているに他ならない。

特徴のひとつは、内部に囲炉裏があること。
装束の間と呼ばれる、籠城時に城主一家が籠もる部屋もある。
装束の間は、忍びの者も侵入できないように床下に石が詰め込まれている工夫が施されているという。
装束の間にある出入り口の先に通じるのが、二重櫓だ。
天守と同時期に建てられたとされ、天守の北側に塁線からはみ出すように築かれている。。出入り口が南北に2か所あり、南側は天守に、北側は後曲輪(うしろぐるわ)に通じ、中継所としての役割も担っていたようといわれる。

目を見張るのは、土台となる天守台と櫓台だが、いずれの石垣も剥き出しになった岩盤上に築かれている。
臥牛山の岩盤は強度の高い花崗岩のため、削りだしてそのまま台座として利用している。。城内のあちこちで見られる、天然の岩盤と人工の石垣のダイナミックなコラボレーションは圧巻で、とくに、オープニング映像でも登場する大手門跡付近の石垣は見事といえる。備中松山城

城下町も見逃せないスポットで、藩主・水谷勝宗が城の南山麓(現在の県立高梁高校)に建てた御根小屋跡も昔の状態をよくとどめている。
御根小屋は城主の居館と政庁を兼ねた建物で、江戸時代には実質的な城として機能していたようだ。

城下町の中で注目したいのは寺院で、高台の上に立ち、高石垣で囲まれた城のような外観で、しかも城を守るような配置されている。
正保年間に初代藩主・水谷勝隆が江戸幕府に提出した『備中松山城絵図』を見ると、城下東側の山麓には寺院が立ち並び、寺院配置の延長線上は1574年(天正2年)の備中兵乱で毛利軍が進行した経路と重なる。
松連寺(しょうれんじ)はわざわざこの時期に移築され、水谷氏の菩提寺である定林寺(じょうりんじ)や池田氏の菩提寺である威徳寺(いとくじ)なども城下南東方向を意識した位置に建てられている。

松連寺幕末に新撰組が壬生寺周辺や西本願寺を屯所としたように、江戸時代における寺院は公的な場で、陣を置いたり兵を収容したりする場所になる。
1615年(元和元年)の武家諸法度公布後は幕府により、城の増改築が厳しく規制されたため、出城の代わりに寺を置き、城下町を城塞化したと考えられる。

近年は、天守が雲海に浮かんで見える絶景が話題になっている。
晩秋から春にかけての早朝には雲海が一面に広がり、山頂の天守だけが頭を出す。
朝方と日中の寒暖差が大きいこと、風がないことなど気象条件がそろえば、幻想的な光景を見ることができる。
臥牛山の東に位置する雲海展望台が鑑賞スポットだ。

雲海が発生する時期は9月下旬から4月上旬の明け方から午前8時頃で、とくに10月下旬~12月上旬の早朝には濃い朝霧が発生する可能性が高まる。

2016-10-03_1305現世とあの世の間に流れる「三途(さんず)の川」。
そのほとりには奪衣婆(だつえば)という恐ろしい鬼の老婆がおり、川の渡し賃の六文銭を持たずにやってきた者から衣服を剥ぎ取り、その重さによって罪の軽重を調べ、死後の処遇を決めるという。「奪衣婆」、「三途川」そして「三途橋」が群馬県内に実在する。

県中西部の甘楽町。車がひっきりなしに通る国道254号の下に夏草に覆われ、両岸をコンクリートで固められた三途川が細々と流れていた。

川をのぞき込んでいた橋の欄干には三途橋のプレートがあった。そして、橋のたもとに奪衣婆を祀(まつ)る姥子堂(うばごどう)(町指定史跡)という小屋がひっそりあった。

姥子堂を管理する宝勝寺の巌(いわお)良昭住職(42)に頼み、堂の中を見せてもらった。83ubagodou
のぞき込んでみると、奥の棚の上に眼をカッと見開いた奪衣婆が鎮座していた。
巌住職によると、20年ほど前に奪衣婆を修復した際、水晶の眼をガラス玉にし、その際に目の色が青くなったという。

昭和30年ごろまでは、毎年4月19日に地元の老人が集まり念仏を唱え、屋台なども出てにぎやかだったという。「子供が悪いことをすると奪衣婆に言いつけるぞ、と大人に脅されたものです」と巌住職は懐かしそうに話した。

姥子堂の建立時期は不明だが、文政3年(1820年)に書かれた「宝勝寺起立之書」には、行基(奈良時代の僧)が奪衣婆像を彫り、川の名を三途川と唱え、村人が堂を建て像を祀ったと書かれている。像と堂は焼失したため、江戸時代に再建したものという。

巌住職は「鉄分が多いせいか川がまっかな血のように見え、それで三途川と名付けたのでしょう」といわれを説明した。

うだるような暑さの中、三途川沿いを歩いていると大事なことを忘れていたことに気がついた。

三途川は利根川水系白倉川の支流で、水源地から長さ約2・5キロ流れ、白倉川に合流する。三途橋は国道254号に架かる。奪衣婆が祀られる姥子堂は鍵がかかり、普段は入れないが、窓の隙間から見ることはできる。問い合わせは宝勝寺。群馬県甘楽町金井375の1。(電)0274-74-3375

 

実在する三途川

http://ankyo.rulez.jp/chinmei/sanzu/sanzu.html

2016-10-03_1306群馬県
三途川は、群馬県甘楽郡甘楽町を流れる利根川水系白倉川支流の小河川である。
上信越自動車道甘楽パーキングエリアの南側付近に源を発し北へ流れ白倉川に合流する。水源地から白倉川との合流地点までは約2.5km。上信越自動車道のほか、国道254号線(中仙道の脇街道)や上信電鉄などの橋がかかっている。国道254号線の橋は「三途橋」というが、一般道の橋であるため死者だけではなく生者も渡ることができ、もちろん六文の通行料も徴収されない。この三途橋のたもとには、奪衣婆を祭った姥子堂がある。

 

 

 

2016-10-03_1307千葉県
三途川(さんずがわ)は、千葉県長生郡長南町を流れる河川。一宮川水系一宮川の支流である。
千葉県長生郡長南町千田字鍛冶屋谷に源を発し、途中で長南町蔵持から流れる裏川を合わせ、長南町と茂原市が接する付近で一宮川に合流する。水源地から一宮川との合流地点までは約4.5km

 

 


2016-10-03_1308宮城県
三途川(さんずのかわ)は、宮城県刈田郡蔵王町を流れる阿武隈川水系濁川支流の小河川である。
宮城県刈田郡蔵王町賽ノ磧付近に源を発し北東へ流れ柴田郡川崎町との境界付近で濁川に合流する。流路延長は約1.8km。周辺には特に宗教的施設などはない。

 



2016-10-03_1309青森県
三途川は、青森県むつ市を流れる正津川の上流部における別名である。
青森県むつ市の霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことだが、この宇曽利山湖から流出する正津川を別名で三途川と呼ぶ。河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の呼称のひとつである。宇曽利山湖の周辺には賽の河原と呼ばれる場所もあり、積み石がされている。

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