2011年12月アーカイブ

霊柩車護衛の8人

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2011-12-30_090812.jpg 金正日(キム・ジョンイル)総書記の告別式で霊柩(きゅう)車に付き添った8人が北朝鮮の新指導部を率いる中核人物であることが北朝鮮メディアを通じ確認された。
 朝鮮労働党機関紙・労働新聞のホームページに掲載された29日付紙面をみると、1面と3面に金総書記の後継者・正恩(ジョンウン)氏ら8人が霊柩車につき添い歩く写真3枚を載せている。
 同写真には別途の説明やキャプションはないが、写真をキャプチャしたり、プリントすれば、「金正恩時代を率いる党・軍主要人物」という説明が出る。書体は北朝鮮のパソコンで使用されるもので、労働新聞が写真のファイル名として添付したものとみられ。
霊柩車の右側には正恩氏、張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長、金基南(キム・ギナム)朝鮮労働党書記、崔泰福(チェ・テボク)党書記、左側には李英浩(リ・ヨンホ)朝鮮人民軍総参謀長、金永春(キム・ヨンチュン)人民武力部長、金正覚(キム・ジョンガク)軍総政治局第1副局長、禹東則(ウ・ドンチュク)国家安全保衛部首席副部長がそれぞれ並んだ。

日本2011-12-27_161355.jpgの宮内庁に保管されてきた朝鮮王室図書がおよそ100年ぶりに戻り、一般に公開される。

国立故宮博物館(館長、鄭鍾秀)は「帰ってきた朝鮮王室儀軌と図書」特別展を27日から来年2月5日まで開く。
 図書は儀軌81種167冊、伊藤博文が貸出で持ち出した奎章閣図書66種938冊、朝鮮総督府が宮内省に寄贈した3種・100冊に分けられる。 展示では伊藤博文貸出図書全体を見せる。 奎章閣書架を再現し、搬出される前に本が陳列された本来の姿を演出した。
(出典:中央日報)

2011122001.jpg今月17日に死去した北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記は、1974年に後継者として公式化された後、37年にわたって北朝鮮を鉄拳統治してきた。しかし金総書記の時代に、北朝鮮の住民たちは経済的に極度の貧困に陥り、基本的な人権に言及することすらぜいたくなほどに、徹底した強圧統治に苦しまなければならなかった。金総書記は、北朝鮮住民はもちろん、韓国の同族に対しても多くのテロや軍事的攻撃を加えた。
(出典:緒戦日報)

■権力誇示型の経済運営、餓死する住民が続出

 金総書記は多くの餓死者を出すなど、北朝鮮を世界で最も悲惨な国の一つに転落させた。

 金総書記は権力を掌握した後、まず経済分野から手を着け始めた。労働党の権力を掌握するという観点から、北朝鮮各地の粒よりの工場や農場を国家経済から外し、党の傘下に移した。その一方で、坂道を下り始めた当時の経済低迷の状況を、自らの能力を誇示して権力を掌握するチャンスとすべく「70日戦闘」「速度戦」などさまざまな増産キャンペーンや、無理な大衆動員方式を進めた。こうした経済運用は、経済の論理を徹底して無視したもので、今日北朝鮮経済や住民生活を墜落させた主な原因の一つ、というのが北朝鮮専門家の分析だ。

 特に、共産圏が崩壊し、94年には金日成(キム・イルソン)主席が死去する中、北朝鮮経済は最悪の状況に陥った。90年代半ば、北朝鮮が「苦難の行軍」と命名したこの時期に、国家経済と食糧配給制は完全に崩壊した。当時、数百万人の餓死者が発生し、北朝鮮は文字通り生き地獄と化した。

 北朝鮮の経済成長率は、91年にマイナス4.4%まで落ち、92年にはマイナス7.1%を記録するなど、98年まで8年連続でマイナス成長を記録した。この時期、不正腐敗もはびこるなど、国家の統制機能が完全にまひした。

 北朝鮮の住民たちは、今でも慢性的な食糧難に苦しんでいる。今年10月に国連食糧農業機関(FAO)と国連世界食糧計画(WFP)が共同で発表した報告書によると、北朝鮮住民のおよそ3分の1に当たる840万人が栄養不足状態だった。

■「先軍」を掲げた暴圧政治で命をかけた脱北者を量産

 北朝鮮が慢性的な経済・食糧難に苦しむ中で、食糧を求めるため国境を越えて中国などに渡る住民が列を成した。対北人権団体「良き友達」は、90年代後半だけでも30万人の北朝鮮住民が脱北したと推定。今も中国やロシア、東南アジア一帯では脱北者がさまよい、生存のため人間以下の扱いを受けるケースが多い。

 金総書記はこうした状況を打開するため、何度か改革措置を取ろうとしたが、いつもスローガンに過ぎず、失敗を繰り返した。98年には、社会主義憲法の改正を行って経済難の中で変化する社会相を反映し、02年には7・1経済管理改善措置を通じ市場を拡大、賃金と物価を現実に合わせる措置を取った。この過程で金総書記は「強盛大国論」「新思考論」「実利主義」など新たなビジョンも打ち出した。しかし、どれも北朝鮮を実質的変化に導くことはできなかった。09年11月には、既存の貨幣と新貨幣を100対1の比率で交換する貨幣改革(デノミネーション)を断行したが、コメの価格が暴騰し、住民の生活はさらに疲弊した。

 金総書記は、軍を優先する「先軍政治」を国家運営システムとして掲げ、深刻な経済難やマイナス成長にもかかわらず、軍事費だけは増やし続けた。金総書記は日常的に住民たちを監視・統制し抑圧することで、国を巨大な監獄にするなど、人権をじゅうりんした。統一研究院は「北朝鮮の政治犯収容所に閉じ込められている人の数は20万人余りに上るだろう」と推定した。故ファン・ジャンヨプ労働党書記は回顧録で「数百万の人民を餓死させ、自由と平等を奪い、国全体を監獄にした人物を、どうして人民の指導者と思えるだろうか」と問い返した。

■大統領夫人狙撃、ラングーン事件爆破などの政治テロ

 金正日総書記が74年2月に金日成主席の後継者として登場した後、北朝鮮は韓国政府の最高位層を狙って直接テロ攻撃を敢行した。最初の大型テロは、韓国大統領夫人の狙撃だった。74年8月15日、祝賀行事の会場で金日成親子の指令を受けた在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)は、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)と陸英修(ユク・ヨンス)夫人の狙撃を試みた。朴大統領は無事だったが、陸夫人は犯人の銃弾をよけ切れず、命を落とした。

 83年10月9日には、ビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン(現ヤンゴン)で、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領一行を狙った。金総書記直筆の書信を受け取った北朝鮮軍のチン・ヨンジン少佐とカン・ミンチョル大尉、シン・ギチョル大尉らは当時、アウンサン廟(びょう)を参拝した全大統領一行を狙って強力な爆弾を爆発させた。全大統領は生き残ったが、長官や大統領府(青瓦台)首席など韓国政府の随行員17人が死亡し、14人が重軽傷を負った。

 二つの事件は、北朝鮮の代表的な「政治的」テロだ。その後も北朝鮮は、海外の公館などで韓国政府の関係者を狙った。

■大韓航空機爆破事件など、民間人にまで無差別テロ

 金総書記は、86年のソウル・アジア大会(86年9月20日-10月5日)と、88年のソウル五輪(88年9月17日-10月2日)を妨害するため、民間人に対するテロも敢行した。

 アジア大会目前の86年9月14日、金浦空港国際線ターミナルのバス乗り場近くに置かれた自動販売機横のゴミ箱に、金日成親子にそそのかされた国際テロリストがTNT爆薬を仕掛けた。この爆発で5人が死亡し、30人余りが負傷した。87年11月29日には、中東出稼ぎ労働者たちを乗せてイラクのバグダッドを出発し、ソウルに向かっていた大韓航空858便を爆破、乗客115人全員が死亡した。88年ソウル五輪の妨害と韓国国内の分裂を引き起こそうという観点からの犯行だった。米国は大韓航空858便に対するテロを契機として、北朝鮮をテロ支援国のリストに載せ、この措置は008年10月まで続いた。また金総書記は、97年2月15日に工作員2人を韓国に派遣し、李韓永(イ・ハンヨン)さん(金総書記の妻のおい)を殺害した。82年に韓国へ亡命した李韓永さんに対する報復だった。

■2度の核実験の後、核保有宣言…全世界を脅迫

 金正日総書記は、金日成主席が死亡した94年から、数百万人の餓死者を出しながら一方的に核拡散防止条約(NPT)から脱退し、第1次核危機を招いた。米国を中心とする韓半島(朝鮮半島)エネルギー開発機構(KEDO)は、北朝鮮が核を放棄する代価として軽水炉を作るというジュネーブ合意に署名したが、金総書記は約束を破り、核開発を中断しなかった。しかも02年10月には、ウラン濃縮計画が発覚し、第2次核危機を招いた。

 金総書記は「生存権のため、核は放棄できない」「金主席の遺訓通り、われわれは核兵器を持つ意志はない」など、相反するような意思表示を行っていたが、06年10月9日、咸鏡北道吉州郡豊渓里の地下核実験場で1回目の核実験を行った。そして、およそ3年後の09年5月25日、国際社会の制止にもかかわらず、1回目の核実験に比べ5倍も規模が大きい2回目の核実験を敢行し、北朝鮮は核保有国だと宣言した。核開発は、韓国はもちろん、全世界に向けた脅迫を意味するものだった。

■板門店のポプラ事件から哨戒艦「天安」撃沈まで、挑発の数々

 76年8月18日、北朝鮮軍の兵士たちが、板門店共同警備区域(JSA)の国連軍哨所前で、視野の確保のため木の枝を切っていた米軍将校2人をおので切りつけ、殺害した。韓米両国は戦争も辞さないとしたため、結局、金日成主席が謝罪せざるを得なかった。

 94年に金主席が死去したことで、金総書記が名実共に全ての権力を掌握すると、挑発はさらに増えた。

 96年9月には、江陵に潜水艦と武装ゲリラ25人を侵入させ、韓国の混乱を誘発した。99年には、北朝鮮の軍艦が西海(黄海)の北方限界線(NLL)を超えて韓国海軍の高速艇に砲撃を加えたが、敗北した。第1延坪海戦だ。金総書記は、これに対する報復として、サッカー・ワールドカップ(W杯)韓日大会が開催されていた02年6月29日、再び韓国の艦艇に向け奇襲砲撃を敢行した(第2延坪海戦)。

 昨年3月には、韓国の哨戒艦「天安」に魚雷を撃ち込み、韓国海軍の将兵約40人の命を奪った。11月には延坪島に砲撃を加え、6・25戦争(朝鮮戦争)以降初めて韓国の民間人2人が死亡した。

2011112509.jpg■天文学上の四季(西洋)
春: 春分 ~ 夏至前日 (新暦 3月21日頃~6月21日頃)
夏: 夏至 ~ 秋分前日 (新暦 6月22日頃~9月22日頃)
秋: 秋分 ~ 冬至前日 (新暦 9月23日頃~12月21日頃)
冬: 冬至 ~ 春分前日 (新暦 12月22日頃~3月20日頃)

■気候学上の四季(西洋)
春: 新暦3月 ~ 5月
夏: 新暦6月 ~ 8月
秋: 新暦9月 ~ 11月
冬: 新暦12月 ~ 2月

■旧暦(太陰太陽暦)・節切りの四季 …二十四節気や季語の分類
春: 立春 ~ 立夏前日;節分 (新暦 2月4日頃~5月5日頃)
夏: 立夏 ~ 立秋前日;節分 (新暦 5月6日頃~8月7日頃)
秋: 立秋 ~ 立冬前日;節分 (新暦 8月8日頃~11月6日頃)
冬: 立冬 ~ 立春前日;節分 (新暦 11月7日頃~2月3日頃)
■旧暦(太陰太陽暦)・月切りの四季
春: 旧暦1月 ~ 3月
夏: 旧暦4月 ~ 6月
秋: 旧暦7月 ~ 9月
冬: 旧暦10月 ~ 12月

「暦の上では春」などとというときは、旧暦の「節切りの四季」をさしています。
節切りの四季は、天球上の太陽の動き(黄経)を基準にしているので、新暦の日付はほぼ固定です。

旧暦の「月切りの四季」でいえば、今年は2月14日(日)が旧暦1月1日、春の始まりです。
月切りの四季は、節切りの四季の区切りとプラスマイナス半月程度のズレがあります。

都道府県コード

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各都道府県に概ね北から南へ、01 から 47 までの数字が割り振られている。このコードは、ISOの地域コード ISO 3166-2 にもそのまま使われている (ISO 3166-2:JP) 。
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