2011年8月アーカイブ

2011-08-31_233835.pngソウル市中浪区忘憂里にある共同墓地「思索の道」は、詩集『あなたの沈黙』の詩人・韓竜雲(ハン・ヨンウン、1879‐1944)、絵画『雄牛』の画家・李仲燮(イ・ジュンソプ、1916‐1956)など著名人の墓があることで有名だ。だが、その中でも特に目を引く墓がある。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」。この墓碑銘の主は浅川巧(1891‐1931)だ。墓を管理している韓国林業研究院の責任者は「唯一、韓国人の手で保存されている日本人の墓」と話す。
 浅川巧をたたえる学術大会が9月5日、ソウル・プレスセンターで開催される。テーマは「時代の国境を超えた愛:浅川巧の林業と韓国民俗工芸に関する研究」。ソウル国際親善協会主催、日本国際交流基金・森林文化財団協賛、文化体育観光部(省に相当)後援で、李御寧(イ・オリョン)元文化部長官が祝辞を述べる。日本による植民地支配時代に韓半島(朝鮮半島)の木材を奪う手助けをしていた朝鮮総督府農商工務部山林課の職員が、なぜこのように手厚く扱われているのだろうか。
 1914年に23歳で朝鮮へ赴任したとき、浅川巧は「朝鮮の人々に申し訳ない気がして、何度も故郷に帰ろうと思った」という。「私が朝鮮にいることが、いつかは何かの役に立つようにしてください」。神に祈り気持ちを落ち着け「朝鮮に住む朝鮮人と同じものを飲み、食べ、同じ服を着て、同じ言葉を使わなければ」と決心した。朝鮮人の町でオンドル(床暖房)部屋に住み、韓服(韓国の民族衣装)を着て朝鮮人と同じように髪を結い外出した。浅川巧の評伝『浅川巧 日記と書簡―朝鮮の土になる』(ヒョヒョン出版)の著者・高崎宗司氏は「日本人警察官たちはバスの中で韓服を着て座っている者を発見すると『ヨボ(韓国語の呼び掛けの言葉『ヨボ=もしもし』を見下した言い方)』とからかい、座席から立たせた。それでも浅川巧は韓服を着続けた」と書いている。
 浅川巧は朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命だと思っていた。全国を巡り木の種類を選び、植樹を続けた。また、自然な状態の土の力を生かす「露天埋蔵発芽促進法」でチョウセンゴヨウマツ(朝鮮五葉松)の種子を芽吹かせる方法を開発した。チョ・ジェミョン元林業研究院長は生前「チョウセンゴヨウマツは当時、2年間かけて苗木を育てていたが、浅川先生が考案した方法のおかげで1年に短縮できた。今、韓国の人工林の37%は、浅川先生が手掛けたもの」と話す。
 浅川巧はとりわけ朝鮮の工芸を愛した。実兄は「朝鮮古陶磁の神様」と称された浅川伯教(1884‐1964)だ。各地の窯跡で陶磁器や破片を集め兄に渡す一方で、自らも朝鮮の膳文化を研究した。「朝鮮の文化は中国の亜流」という日本人の主張に反論し、朝鮮の食卓を取り上げ、朝鮮文化の独自性を訴えた。生前に出した本『朝鮮の膳』にはこう書いてある。「疲れに疲れている朝鮮よ、他人のまねををするよりも、今ある大切なことを失わなければ、近く自信に満ちた日が来るだろう。これは、工芸に限ったことではない」。死後も朝鮮陶磁器の研究書『朝鮮陶磁名考』が出版された。鄭良謨(チョン・ヤンモ)元国立中央博物館長は「韓国の工芸品や陶磁器の歴史を研究する人々にとって宝物のような本」と評している。
 1931年4月2日に40歳の若さでこの世を去った浅川巧の葬儀は林業試験場の広場で行われた。葬式では土砂降りの雨にもかかわらず、大勢の朝鮮人たちがひつぎの載せられたこしを担ぐことを志願、交代で担いだという。遺言に基づき白い韓服を着て朝鮮人共同墓地に埋葬されたが、今は忘憂里共同墓地に移された。京畿道抱川市光陵の国立林業研究所(旧林業試験場)には、浅川巧が植えたチョウセンゴヨウマツが今も立っている。浅川巧の故郷・山梨県北杜市には2001年、浅川伯教・巧兄弟の記念碑が建てられた。浅川巧の人生を描いた映画『白磁の人』も韓日合作で制作が進んでいる。間もなく慶尚南道陜川郡や全羅北道扶安郡などで撮影が行われ、来年公開される予定だ。
 忘憂里共同墓地に墓参に訪れる人も増えている。80周忌に合わせ韓国で出版された『韓国を愛した日本人』(bookie社)には韓国人高校生たちの感想文が掲載されている。「隣国・朝鮮をこの上なく愛した浅川巧の国・日本は、私にとって知りたい国になった」(ソウル・清潭高校2年生)。ソウル国際親善協会のイ・スンジュ会長は「今回の学術会議が、両国国民が尊重し合う方向に進み、同じ地球に住む者として成長・発展するきっかけになれば」と話している。

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 今月17日、宮城県気仙沼市の大島港。3000トン級の大型クレーンが、陸地に打ち上げられていた306トンクラスのカーフェリーを持ち上げ、海に下ろした。このフェリーは、今年3月に発生した東日本巨大地震の津波によって、海から200メートルも打ち上げられたままになっていた。
5カ月ぶりにフェリーが海面に下ろされるや、集まった島の住民たちが歓声を上げた。その中に「やったぞ! おれたちの手でやった!」という韓国語が混じっていた。
 フェリーを海に下ろした立役者は、海難救助を専門とする韓国企業「コリアサルベージ」に所属する専門家9人だった。専門家たちは今年5月からフェリーの移設作業に取り組んでいた。日本の災害現場で、海外の企業が復旧作業に取り組む唯一のケースとなった。
 コリアサルベージのリュ・チャンヨル社長(57)は「経済的な観点で考えれば、利益は全くなかったといってよい。大災害に打ちひしがれる日本人たちを助けようとの思いで作業に取り組んだ」と話した。 今年3月11日、大島には高さ15メートルの津波が襲った。港に停泊していた306トン級の「フェリー亀山」などが、津波によって陸地に打ち上げられた。これらのフェリーは、島の住民約3100人が気仙沼市中心部へ行き来するための交通手段だ。

2011-08-26_100435.jpgワールドカップチャンピォンとなり、日本中の注目を集める女子サッカーのなでしこジャパン。
なでしこのルーツとも思える、大正時代の古い写真が香川県丸亀市に残っています。
丸亀市にいたサッカーなでしことは…。
 はかま姿で楽しそうにボールを追いかける女子生徒たち。香川県立丸亀高校の前身、丸亀高等女学校の生徒です。今から90年ほど前、大正13年頃に撮影されました。
女学校創立20周年を記念して、当時、発行された33枚組の絵葉書セットの一部です。
丸亀市内の男性から19年前市の資料館に寄贈されました。
なぜ、日本でサッカーが普及し始めた大正時代に、四国、香川の丸亀市で女子生徒がサッカーをしていたのでしょうか?
地域の歴史を研究しているグループが答えを解く手がかりを教えてくれました。
1914年(大正3年)から2年半に渡って、丸亀市にはドイツ人のための俘虜収容所があり、当時の陸軍省の文書に次のような記述があります。
「大正3年11月30日晴れ 娯楽のためのフートボール1個を支給 嬉々として戯れていた」
ドイツ人俘虜が持ち込んだ文化のひとつがフットボール、サッカーだったのです。
大正時代、丸亀にサッカーを広めたドイツ人。そのドイツで開かれたワールドカップで頂点に立ったなでしこジャパン。
ボールを追いかける女子生徒の写真に、ドイツと丸亀市、そしてサッカーの縁を感じずにはいられません。
(出典:RNC25/8ニュースから)

2011-08-22_190322.png防衛省が、中国や台湾と領有権をめぐり対立している尖閣諸島(中国名:釣魚島)の防衛を目的に、近隣の沖縄県・与那国島に100人規模の陸上自衛隊部隊を配備する方針を固めた。
 
読売新聞が21日付で報じたところによると、防衛省は鹿児島県から沖縄県にまたがる南西諸島の防衛強化のため、新設する陸上自衛隊の「沿岸監視部隊」を台湾に隣接した日本最西端の与那国島に配備するという。与那国島は人口1700人ほどの島で、台湾から約110キロ離れている。日本が沖縄本島以外の離島に陸上自衛隊を配備するのは初めてとなる。
 
防衛省は、与那国島を管轄する与那国町から島南西部の町有地を取得し、駐屯地を建設する方針で、関連費用を来年度予算案に反映する。2015年までに配備を完了する予定だ。
 
沿岸監視部隊は、中国や台湾などの通信を傍受し、尖閣諸島を含む東シナ海を航行する中国の艦船を監視する任務に就くとみられている。尖閣諸島付近への自衛隊配備は、同諸島の領有権を主張する中国と台湾から大きな反発を招きそうだ。
自衛隊の配備をめぐり、与那国島の住民の間では賛成・反対両方の署名運動が行われている。琉球新報によると、自衛隊誘致に反対を求める署名数は20日までに535人となり、誘致賛成署名の514人を上回ったという。

「実際に私を初めて見た人は、誰もが“若いころはふっくらしていたのに”と言う。テレビの画面では、実際より大きく見えたせいもあるのだろう。かなり長い歳月が流れたが…」

 国家安全企画部(安企部、現在の国家情報院)に保護されていたとき、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚に拳銃射撃をさせたところ、百発百中だったという。工作員時代、男性1、2人を相手にできるほど優れた格闘の実力を持っていたとのことだ。金元死刑囚は背筋をピンと伸ばして座っていた。24年前のバグダッド空港に戻るときが来た。

-爆破を目的として大韓航空の858便に搭乗した。そのときどういう感情を抱いていたか、覚えているか。

 「平壌の東北里招待所で“南朝鮮(韓国)の飛行機を吹き飛ばせ”という任務を命じられた。1988年のソウル・オリンピック開催を前に、南朝鮮かいらいの“二つの朝鮮”策動を防ぎ、敵に大きな打撃を与える。敵後(敵の背後)で任務を遂行しなければならないということだけを考えていた」

-とはいえ、当時あなたは25歳と若かった。

 「工作員として初の任務だった」

-それなのに?

 「実際、金勝一(キム・スンイル)おじいさん(工作のパートナー、当時の推定年齢74歳)が薬をくれた。飛行機に乗ると、韓国語で“ようこそ”とあいさつされた。工作員になる訓練を7年8カ月にわたって受けたが、そのとき初めて南朝鮮の人を見た。私は正体がばれるのではと思い、ハラハラした」

-飛行機に乗っていたのは、韓国から中東に出稼ぎに行っていた労働者がほとんどだった。罪もない人間を殺すというのは…。

 「北朝鮮で作戦を研究した際、外国人が乗らない航空機を狙った。国際問題にならないように」

-3年ぶりに韓国に帰国する人々が韓国語で話しているのを聞いたか。

 「後ろから3番目の席に座った。隣の席には西洋人が座っていた。目を閉じると、韓国語が聞こえてきた。会社の話をしているようだった。夕食を終えると、皆眠りに就いた。少し動揺したが、中央党がしっかり理解した上でこの任務を与えたのだろうと思った。統一のためには犠牲を払わなければならないという、革命家としての決意を固めた」

-当時、あなたが知っていた外の世界の情報は?

 「世の中を知るというより、北朝鮮で教えられた通りに動くロボットだった。もちろん、海外実習も行った。外の世界は北朝鮮よりも自由で豊かだった。しかし、韓国がいつも攻撃しようとしているから、自分たちはこうするしかないと教わった。北朝鮮が大変で食べていけなくても、二心を抱くことができなかった。受け入れられなかったのだ」

-大韓航空機爆破の指令を受け、金正日(キム・ジョンイル)総書記と会ったことはあるか。

 「ない。任務を命じられた後、労働党対外情報調査部(拉致・テロ・海外情報活動を担当)のイ・ヨンヒョク部長と招待所で会ったことはある」

-なぜ金総書記の直接の指示によるものだと主張するのか。

 「北朝鮮は、金総書記の指示なしには銃1発さえも撃てない国だ。1カ月かけて工作コースを計画する際、おじいさん(金勝一)が“バグダッド路線はよくない”と言った。“戦時中の国を通過するため荷物の検査がうるさいだろう”という意見を出した。そのとき、対外情報調査部の課長が“既に批准(裁可)が下りているため、今回はそのままやるように”と言った。北では、故・金日成(キム・イルソン)主席、金正日総書記以外に、批准できる人間はない。対南工作部署は金総書記が指揮していた」

 1987年11月12日午前8時30分、金元死刑囚は、金勝一と共に平壌の順安飛行場を出発した。出発直前「私たちは敵後で生活する間、3大革命規律を厳粛に守り…命尽きるまで、親愛なる指導者同志の高い権威と威信をあらゆる手だてを尽くして守り、戦う」と宣誓した。

 金元死刑囚一行は、同日夜にモスクワに到着した後、すぐさまハンガリーの首都ブダペストに飛んだ。そこから陸路でオーストリアの首都ウィーンに入った。このときから日本人親子を装い、日本のパスポートを使った。金元死刑囚はコート、セーター、靴、腕時計、ハンドバッグなど主に日本製品を買い込んだ。2人の工作員に与えられた工作費は1万ドル(現在のレートで約76万円)だった。2人はオーストリアから再び航空便を使い、ユーゴスラビア(当時)の首都ベオグラードへと向かった。ここで、同行した工作指導員から、爆薬が仕込まれた日本製(パナソニック)のトランジスターラジオと液体爆薬を渡された。イラク行きの航空便でバグダッドに入ったのは、11月28日だった。

-なぜこのような長い道のりを?

 「身元を偽装するためだった。大韓航空の858便に乗るため、おじいさんが随分研究した」

-パナソニックのトランジスターラジオは、片手で持ち運びできる程度の大きさだったと思うが。

 「そうだ。スイッチを入れて9時間後に爆発する。電池薬(バッテリー)は特殊に製造されたものだった。半分は爆薬、半分はラジオを組み込める仕組みになっており、ほかのもので代替できないバッテリーだった」

 2人がバグダッド空港の保安検査台を通過する際、検査要員が「バッテリーを持って飛行機に乗ることはできない」と言い、ラジオからバッテリー4個を外してゴミ箱に投げ入れてしまった。大韓航空機の爆破が失敗したと思わせる瞬間だった。

 「全く予想できなかったことだった。それまでも海外に出入りしていたが、こんなことはなかった。所持品を全部取り出すなど、検査は厳しかった。アラブ諸国に関する情報がなかったせいだ。どうすればいいか分からず、おじいさんの方を仰ぎ見た。おじいさんは悠然とバッテリーを拾ってはめ込んだ後、ラジオを手に取った。『ただのラジオなのに、乗客にこんなことをしてもいいのか』と抗議した。それで検査を通過した」

-もしそこで失敗していたら?

 「計画担当者は問責され…。発覚したわけではないから、私はまた工作活動を続けていたかもしれない」

 2人は座席の上の棚にトランジスターラジオと液体爆薬を詰めた買い物袋を置いたまま、経由地のアブダビ(アラブ首長国連邦)で飛行機を降りた。

 大韓航空機が爆発した場合、アブダビで降りた乗客15人が追跡対象になる。2人は「痕跡」を消さなければならなかった。ローマ行きの飛行機に乗り換える「逃走用」のチケットを準備していたが、そのチケットは、通過ビザの問題に引っ掛かった。どうすることもできず、乗ってきた航空券に記された通り、バーレーン行きの便に乗らなければならなかった。

 翌朝バーレーン行きの飛行機に乗るまで、通過旅客向けの待合室でじっと待機していた。その間に、ミャンマー近海の上空で大韓航空機は爆破された。

-大韓航空機がいつ爆発するか、待合室で時間を計算していたのか。

 「正確に爆発したかどうか分からない状況だった。当時は私たちの脱出ルートがふさがれ、ひどく焦っていた。私たちに捜査の手が迫っているはずだったが、待合室から抜け出すこともできず…」

-あなたは、115人が犠牲となった爆破の場面を見ていない。そのせいで、自分の犯罪に対する罪悪感が弱かったのではないか。

 「当時、罪悪感というものはなかった。そんなことを考えていたら、革命家でも、北朝鮮の工作員でもない。後に遺族と対面するまでは分からなかった。法廷で“あなたがやったはずがない。どうしてやっていないと言わないのか”という遺族の絶叫を聞いて、本当に気の毒に思い、申し訳ない気持ちになった。早く殺してほしいと思うばかりだった。死ぬのは簡単だが、生きているのはつらかった。自分が生き残るとは思わなかった」

 土曜日の午後、2人はバーレーンに降り立ち、ホテルに泊まった。イスラム圏では日曜日が公休日ではなく、旅行会社が営業していることを知らなかった。そのまま2日間、滞在した。

 「アラブ諸国についての基本情報が全くなかった。工作資金の問題で、机の上だけで作戦を立てていたからだ」

 2人に対する追跡が始まった。バーレーンの入国カードに「真一」「真由美」と書いたことが端緒だった。日本人なら、「蜂谷真一」「蜂谷真由美」とフルネームで書くか、あるいは「蜂谷」という姓だけを書くからだ。

 「おじいさんがそう書けと言った。身元が完全に判明しないようにやったことだが、それが発端になるとは思っていなかった。おじいさんのパスポートは本物の日本人のパスポートを盗用したもので、書類上は偽造ではなかった。だが、私のパスポート番号は男性に使われる番号だった。けれどそのときまで、欧州でも摘発されたことはなかった」

-その日の夜、韓国大使館の職員がホテルにあなたを訪ねて来なかったか。

 「捜査網が狭まっているのを感じた。私は知らないふりをして横になっていた。おじいさんと筆談した後、帰って行った」

-その職員が帰った後、どういう会話をしたのか。

 「おじいさんが“爆発したのは確実なようだ。証拠がないため私たちを逮捕することはできない”と言った。翌朝、空港に向かうとき“悠然と行動しろ。飛行機に乗れば済む”と言った。それでも“万一のために…”と、マールボロのたばこ(毒薬のアンプル)を手渡された」

■「大学2年のとき工作員に選抜、映画で春香役を演じると思っていた」

 金元死刑囚は、幼いころは女優、その後は外交官になるのを夢見ていた。そんな金元死刑囚は、平壌外国語大学日本語科の2年生だった1980年(当時18歳)、工作員に選抜された。

 「書類を検討し、学校に来て私のことを把握した後、中央党の幹部が3回面接した。父は外交官(当時、駐アンゴラ大使館で勤務)だったため、出身成分はよかった。私は優等生で、日本に侵入させるという目的のためには、日本語を学んだ私に白羽の矢が立ったようだ」

-そのとき、「工作員」を選抜する審査だと知っていたのか。

 「選ばれたときは分からなかった。当時“『春香伝』の映画を撮る”という話が広まっていたため、春香役を演じるのだろうと思っていた。金正日総書記がかなり関心を持っていた映画だった。選抜審査の後、中央党の幹部が乗用車で家まで送ってくれ“服をまとめてトランクに詰めろ。きょうは休み、あす連れに来る”と言った。私がどうなるのか、親さえも正確には知らなかった」

-選抜されたとき、選ばれた人間だと感じたか。

 「中央党は力がある上、神のような存在の金日成国家主席に最も近くでお仕えするところだ。そこに選抜されたのだから、光栄に思い、浮かれていた。親元を離れるさみしさはなかった。まだ若かったから」

-自分が何をすることになるのか、いつ知ったのか。

 「初めて妙香山地区にある“金星政治軍事大学”に入ったときだ。そこで“密封教育”を受けた。統一のために働くという革命家のプライドを学び、統一革命で失敗したケースの分析、情報収集、抱き込み、行軍、格闘、射撃訓練、秘密のアジトに隠れる方法などを学んだ。その後も韓国人化教育、日本人化教育、中国人化教育、海外実習に至るまで、7年8カ月にわたり工作員になる教育を受けた」

-なぜ工作組を2人で編成するのか。

 「1人では送らない。互いを補い合う面もあるが、監視する役割も果たす」

-金勝一と日本人親子を装ったが。

 「おじいさんは6・25戦争(朝鮮戦争)のころからその部署で働いていたと話していた。病弱な老人と若い娘が一緒に旅行していれば、疑われることはなかった。実際に薬を調達してあげたこともあった。手に負えず“休んでいこう”とよく言っていた。1984年にも、一緒に海外を旅行した。そのとき、おじいさんは事業のため一時韓国を訪れた。おじいさんと一組になったのは、その経験を私に引き継ぐためという目的もあった」

-金勝一とはよく会話をしたのか。

 「工作員は自分の正体を明かさない。お互いのことを尋ねてもいけない。自分の本名も漏らさない。おじいさんは私を“真由美”と呼んだ。二人は日本語で会話した。もちろん、長い間一緒にいると、相手について少しは知ることができる。取り調べを受けたときに出した資料は、そうして得たものだ」

-金勝一はどういう人物だったのか。

 「温厚で、本を読むのが好きな研究家だった」

-そんな人物が工作員になったということか。

 「性格とは関係ないのではないか」

 金勝一はバーレーン空港で正体がばれたとき、毒薬のアンプルを飲み込み自殺した。遺体は韓国に移送され、解剖された。当時の体重は45キロにも満たなかったとされる。

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