2011年5月アーカイブ

朝鮮王室儀軌

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2011052701.jpg朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)は、李氏朝鮮時代の国家主要行事を文章や絵画で記録した文書類の総称である。

李氏朝鮮時代、朝鮮王朝は、王室の嘉礼(結婚式)や国葬、冊封、築城、国王の実録など、国家や王室の主要行事に関し、その内容を「儀軌」と題して図解を含め詳細に記録した。現存する最古の儀軌は、1600年(宣祖33年)の『(懿仁王后(いじんおうこう))殯殿魂殿都監儀軌(ひんでんこんでんとかんぎき)』である。
当時の朝鮮では、行事の主管として「都監」、「庁」、「所」という臨時機関を設け、都監は行事終了後に解散し「儀軌庁」となって儀軌の編纂作業を行った。儀軌には、その行事の準備過程や動員された人員、費用の収支、製作された物の材質や方法など、事細かに記録された。1979年には、儀軌を参考にして、大韓民国京畿道水原市に華城が復元されている。
儀軌は、王室所用の「御覧用」のほか、議政府、礼曹判書、春秋館、その他の各史庫用に複数製作された。そのうち御覧用は、1866年(高宗4年)の丙寅洋擾(へいいんようじょう)の際に外奎章閣(王立図書館である奎章閣の別館)からフランス軍によって略奪されたため、韓国国内にほとんど残っていない。このとき略奪された御覧用の儀軌は、ビブリオテーク・ナショナル(フランスの国立図書館)に納められている。
2007年には、Uigwe: The Royal Protocols of the Joseon Dynasty として、UNESCOの世界の記憶に指定された。

所蔵
ソウル大学奎章閣 - 546種2940冊
韓国学中央研究所蔵書閣 - 287種490冊
日本の宮内庁書陵部 - 72種141冊
フランス国立図書館 - 191種297冊

返還問題(日本の対応)
盧武鉉政権下の韓国で、北朝鮮とともに「返還運動」が組織された。

2006年(平成18年)12月には、この返還運動の一環として設置された「朝鮮王室儀軌還収委員会」が主体となり、韓国国会が「日本所蔵朝鮮王朝儀軌返還要求決議文」を決議して、返還請求を行った[6]。また、朝鮮王室儀軌還収委員会は日本政府と皇室を相手取り、儀軌返還に向けた民事調停申請をソウル中央地方裁判所に行っている。

日本政府の公式見解は、1965年(昭和40年)の韓国との請求権・経済協力協定により、両国及び両国民間の財産、請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されており、また、同年の韓国との文化財・文化協定の附属書で、同文書に掲げる文化財を両国政府間で合意する手続に従って協定の発効6ヶ月以内に韓国政府に対して引き渡すと定めたものの、朝鮮王室儀軌については、この引渡しを行うべき文化財には含まれておらず、さらに、その他の条約によっても引き渡すという法的義務は負っていないため、韓国側に引き渡す法的義務を何ら負っていないとしている。日本に存在する儀軌は、その大部分が1922年(大正11年)に朝鮮総督府を経由して宮内省(現・宮内庁)に移管されたものであり、その他は購入されたもの[7]。宮内庁の書陵部には、儀軌と名のつく書籍は約80部、160冊ほどあるとされる[7]。韓国の朝鮮王室儀軌還収委員会によると、日本の儀軌は「五台山(オデさん)史庫本」と呼ばれる保管本。(五台山史庫本については、朝鮮王朝実録参照)

2008年(平成20年)に盧武鉉政権を引き継いだ李明博政権は、公的要求として「日韓関係の象徴として例外的な扱いを求めたい」とし、外相会談の議題とする予定を明らかにした。

2010年(平成22年)2月25日には韓国の国会で日本に対する「儀軌返還要求決議案」が可決され、同年4月6日に韓国の国会議員である鄭義和、李貞鉉、李範観、成允煥(ハンナラ党)、金富謙、李潤錫、崔文洵(民主党)が、「日本の皇室や国会議員に今年、韓日強制併合100周年を迎えて植民地時代を反省する意味で儀軌返還を促す」ために来日した。
同年8月10日、菅直人首相が発表する談話の内容が閣議決定され、そこに「朝鮮王室儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡しがしたいと思います」とする一文が盛り込まれた。同年11月14日の日韓首脳会談にて朝鮮王室儀軌を含めた図書1,205冊を韓国に引き渡すことで正式に合意し、図書に関する日本国政府と大韓民国政府との間の協定(日韓図書協定)が署名された。11月20日、在日本大韓民国民団は、高麗博物館や東京朝鮮人強制連行真相調査団、日本の戦争責任資料センターと、「朝鮮王室儀軌」のような図書に留まらずに、美術品や古墳からの出土品なども日本に「返還」させる方法について協議するため、韓国や日本の国会議員(民主党の石毛鍈子議員と日本共産党の笠井亮議員)を招いてシンポジウムを開催した。
2011年4月27日、衆議院外務委員会で日韓図書協定について民主、公明、共産、社民が賛成、自民党は反対したが可決され28日には衆議院本会議でも可決された。

2011年5月13日、朝鮮王朝還収委員会は返還のために尽力したとして、共産党の笠井亮、民主党の石毛鍈子、社民党の服部良一の各衆院議員を表彰した。

5月26日20時頃から、インターネットコミュニケーションサービス「Skype(スカイプ)」を利用できないという不具合が発生した。
同社の公式Twitterでは「一部のユーザーの間で、サインインや通話の問題が起きている可能性があり,
現在この問題を調査中であり、わかり次第早急にお伝えします」と発表している。

ユーザーサイドでできる対策
・ Windowsの場合
 1.Skypeを終了する
 2.Windowボタン + 「R」を押して、「ファイル名を指定して実行」を起動する
 3.「%appdata%\skype」を入力して「OK」を押す
 4.shared.xml ファイルを削除してSkypeを再起動する

shared.xml(Windows7)の検出
 \ユーザー\アカウント\AppData\Roaming\Skype\shared.xml
見つからない場合には、フォルダオプションから「表示タブ」の「ファイルとフォルダの表示」をすべてを表示する設定に切り替えて検索する。
 
・ Macの場合
 1.Skypeを終了する
 2.Finderを開く
 3.shift + command + Gキーを押す
 4.「~/Library/Application Support/Skype」と入力しEnterを押す
 5.shared.xml ファイルを削除してSkypeを再起動する
 
なお同社は、修正プログラムを発行する予定とのことである。 (追記参照)

参照:Skype(英文)

バナナ等価線量

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2011052101.jpgバナナ等価線量(バナナとうかせんりょう、Banana Equivalent Dose)
 普通のバナナが発する放射線と比べたときの線量を表す単位である。
食品は自然放射能を帯びており、特にカリウム40を多く含むバナナはそれが顕著である。バナナ等価線量とは、一本のバナナを食べたときに受ける線量を意味する。
原子力発電所から漏洩する放射線は極めて小さな単位で計測されることが多い(ピコキュリーすなわち1兆分の1キュリーが典型的)。
そのような被曝量をバナナ等価線量と比べることで、実際の健康被害を現実的に評価できることがある。バナナの平均的な放射線量は1kgあたり3520ピコキュリー(=130.24ベクレル)であり、150gのバナナでは520ピコキュリー(=19.24ベクレル)である。
1日1本バナナを1年間食べ続けた場合の等価線量は3.6ミリレム(=36マイクロシーベルト)である。
以上のような主張もかつては存在したが、現在では誤りであると判明している。
カリウム40を10,000ベクレル経口摂取したとしても、実効線量は0.062ミリシーベルトに過ぎない。
バナナの放射能は、放射性物質の密輸を検知するためにアメリカの空港に設置されている放射線センサーをよく誤反応させる程度に強力である。


スリーマイル島原子力発電所事故のあと、地元の牛乳からアメリカ合衆国原子力規制委員会は1リットルあたり20ピコキュリーの放射性ヨウ素を検出したが、これは1本のバナナより少ない線量である。
僅かに放射能を帯びた12オンスの牛乳は、75分の1のBED(Banana Equivalent Dose)と同じである。
バナナとの比較の欠点のひとつは、人体におけるその振る舞いである。人体はヨウ素を甲状腺に蓄積するがカリウムの大部分は水に溶け込み特に細胞内に多い。放射線の影響を語る場合はこれらの違いを考慮すべきである。
また、放射性カリウムは生物学的半減期が約30日である上、過剰なカリウムはナトリウムとともに体外に排出されることにより体内のカリウムはほぼ一定量に保たれるのだが、セシウムは生物学的半減期が100日~200日と言われ、過剰に人体に蓄積されていくことが確認されている。この点もバナナと比較する上で留意すべき点である。(出典:Wikipedia)

 

平年値

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an_jpn.jpg-平年値の更新と使用開始時期-
 平年値は、その時々の気象(気温、降水量、日照時間等)や天候(冷夏、暖冬、少雨、多雨等)を評価する基準として利用されると共に、その地点の気候を表す値として用いられている。
 気象庁では、西暦年の1の位が1の年から続く30 年間の平均値をもって平年値とし、10 年ごとに更新している。
 現在は、1971~2000 年の観測値による平年値を使用しているが、今年は平年値を更新する年にあたり、1981~2010 年の観測値による新しい平年値を作成した。
 気象庁では、平成23 年(2011 年)5 月18 日に、この平年値の使用を開始し、
これにより、季節予報や天候の解説等で用いる各種平年値が新しくなる。

NIKON~マイクロニッコールの歴史と真実、そして伝承~第二十五夜より
P5102878.JPG1.マクロとマイクロ
 「マクロレンズ」は社会的に認知された近接撮影用レンズの一般名称です。では、「マイクロレンズ」はどうですか ? 学術的にはどちらが正しいのでしょうか ? なぜ当時の開発者は近接撮影用レンズに「マイクロ」の冠を付けたのでしょうか ? そこには厳密性を重んじた当時の開発者たちの思いがあったのです。
 マクロ写真の定義を古い写真用語辞典で引くと「原寸大以上の倍率で撮影する写真」と定義されています。したがって、マクロレンズは顕微鏡のような拡大光学系を指すのです。しかし、S型カメラの時代では、近接撮影用レンズは、せいぜい撮影倍率1/2倍から等倍までの縮小光学系です。したがって、マクロレンズ(=拡大倍率で撮影できる光学系)ではないのです。当社は他に立派な拡大光学系(顕微鏡等)を開発・販売していました。当時の開発者は、はっきとしかも正確に区別をしたかったのです。開発者たちは厳密な「定義」を良しとし、「売りやすさ」に背を向けました。

2.漢字が生んだ「マイクロニッコール」
 マイクロ写真とは、いわゆる複写・縮写を連想させるものでした。太平洋戦争直後の日本では、貴重な歴史的資料・書物の保管に、米国の最先端技術であったマイクロファイルシステムの導入を決めたそうです。しかし、当時のシステムに装備された光学系では、F値が暗く解像力も不足していたのです。では、なぜその様な不完全なシステムが、全米を一世風靡したのでしょうか ? そこには言葉(文字)の落とし穴があったのです。この光学系に要求された精度は、アルファベットの小文字の「e」と「c」判別が可能であることでした。米国の場合、英字新聞の縮写が解像限界であっても何とか使えたわけです。ちなみに、ドイツのメーカーのレンズは、もう少し解像力が高かったようです。これはドイツ語のウムラウト等を識別するため、米国のシステムより少し高い解像力を必要としたのではないかと、私は推測しています。しかし、このシステムで漢字を解像する事は不可能でした。特に当時の漢字は字画が多いために、判別にはアルファベットの数倍もの解像力が必要だったのです。 文化というものはおもしろいものです。本来、我々東洋人は視力も良く、細かい作業に向いていると言われています。その根底には使用している文字の細かさが関係しているのかもしれません。まさにマイクロニッコールは日本の文化、日本の文字が育んだと言っても過言ではないでしょう。 前記のような日本を取巻く環境と背景があり、官民合同で検討が始まりました。そして、当時東大理学部教授であった小穴教授のご依頼という形で、マイクロニッコールの開発が始まったのです。産みの苦しみは「漢字」という文化をもった日本ゆえの事でした。設計上の試行錯誤を繰り返し、二度の試作を経て、マイクロニッコール5cm F3.5が完成します。小穴教授は完成したばかりのマイクロニッコールを使い、樋口一葉著「たけくらべ」の単行本全文70ページをマイクロカード1枚に納め、世の中の人々をあっと言わせました。マイクロニッコールの優秀さをアピールすることになった「たけくらべの逸話」がここに誕生した瞬間でした。

3.マイクロニッコールの開発履歴
 小穴教授からのご依頼を受けて、マイクロニッコールの開発に従事したのは東氏と脇本氏でした。東氏は小穴教授の同窓でした。また小穴教授は脇本氏の恩師ときています。否が応でも粉骨砕身努力することは明らかでした。そして、昭和31年にS型カメラ用マイクロニッコール5cm F3.5が発売されました。このレンズは、クセノター型の独創的なものでした。製品担当は東氏になっています。私の調査では、実際に主設計者が東氏であったのか、脇本氏であったのかは不明でした。しかし当時は、製品担当者が光学設計を最終的にまとめた人である事が通例なので、東氏の設計であった可能性が高いと思います。いずれにせよ協力関係にあったことは間違いがないようです。
そして時は過ぎ、ニコンFの時代になります。脇本氏は定評あるS用のマイクロニッコールのバックフォーカスを長くするために、修正設計しました。その結果、焦点距離を5mm伸し、「マイクロニッコール」の名を不動のものにした「マイクロニッコール55mm F3.5」が誕生します。まず昭和36年に、鏡筒単体で等倍まで撮影可能なマニュアルのタイプのレンズが発売されました。そして、昭和38年に光学系は共通で、レンズ単体の最大撮影倍率を1/2倍に抑え、オート絞り機構を備えたマイクロニッコールオート55mm F3.5が発売されます。このマイクロニッコール55mm F3.5はAiマイクロニッコール55mm F2.8が発売されるまでの約19年間、光学系の基本設計を変えることなく販売し続けたのです。
 脇本氏と小穴教授との関係はこのレンズの誕生でますます深まります。小穴教授は各種写真レンズや各種対物レンズの解像力を試験するテストチャートの研究をされていました。当時、小穴教授の目下の課題はそのチャートの原版作成でした。しかし、原版を写真製版によって作成するとしても、使えるレンズが無いのです。高性能レンズを評価するためにテストチャートを作成するのです。当然、チャートを作成するためのレンズは、それらよりも更に群を抜いてシャープなレンズである必要があります。そこで、小穴教授は理論解像力に限りなく近い解像力を持つ、超マイクロニッコールの開発を脇本氏に依頼します。それがウルトラマイクロニッコールの誕生に結びつきます。そして、この開発と経験がニコンの新たな未来を生み出すことになるのです。
 第一夜はここで終了です。第二夜はいよいよAiマイクロニッコール55mm F2.8のお話しです。どのような写りなのか ? その描写の秘密は何か ? 設計者はどのような人物か ? 次回をお楽しみに。

まぼろしのマクロニッコール
 お客様に「マイクロニッコールがあるのに、マクロニッコールは無いの ?」と聞かれることがあります。実はきちんと存在しています。ここで、ちょっとだけ開発の裏側を見てみましょう。
 実はF用マイクロニッコールの開発時期と時をあわせて、顕微鏡部門でもマクロ写真装置開発の計画が進行していました。この開発が大型マクロ写真撮影装置(マルチフォト)につながります。妥協の無い商品開発は、まさしくニコンの伝統です。計画はラージフォーマットを基準としたカメラ(撮影装置)まで発展していきます。その開発の中で数本のマクロニッコールが誕生します。
 また、当時のカメラ部門でも35mm判マクロニッコール計画がありました。スペックの異なる3種類のマクロニッコールが設計・試作されました。光学性能は充分満足できるものだったと記録にあります。しかし、当社(顕微鏡部門)には既に本格的なマクロ撮影装置の計画があったのです。したがって、大変残念なことにFマウントのベローズに対応するマクロニッコールの商品化はされませんでした。しかし、マクロニッコールはその後、産業用、工業用には「プリンティングニッコール」へ発展し、写真用には大判カメラ用の「アポマクロニッコール」に発展していくのです。いずれにしても、高解像で光学系としては究極の姿でした。

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