夢路いとし・喜味こいし
交通巡査

夢路いとし(本名・篠原博信)と喜味こいし(本名・篠原勲)は兄弟で、両親は旅回りの劇団に所属していた。幼い頃の2人は子役として活動(初舞台はともに1932年)し、兄の博信は東京で映画に出演、弟の勲は劇団の巡業について全国を巡り、芝居に出演した。1936年、二・二六事件をきっかけに一家は名古屋で暮らすようになった。

名古屋でも2人は芝居に出演した。変声期を迎え「大人とも子供ともつかんような中途半端な年齢」に差しかかっていた2人はチンピラ劇に出演するようになり、そこで漫才のような掛け合いを演じた。ある時2人は共演者で玉乗り芸人の井上金太郎に掛け合いが面白いと評価され、漫才師に転向するよう勧められた。井上の勧めに従うことにした2人は井上の紹介で漫才師の荒川芳丸(井上が属する一座の座長を務めていた)に弟子入りすることになり、1937年秋に一家で荒川の一座に入った。荒川は漫才師となった2人に荒川芳博・芳坊という芸名をつけた(芳博が後の夢路いとし、芳坊が後の喜味こいし。喜味こいし(芳坊)曰く、荒川自身は「鼓を叩くような古いスタイルの漫才」をやっていたがそのような漫才は時代遅れだと認識しており、2人にしゃべくり漫才をやるように勧めた。コンビ結成当初はしゃべくり漫才が世間に漫才として十分に認知されておらず、地方の興業では客から「漫才をやれ!」と野次られ、泣きながら演じることもあった。

1940年10月に荒川芳丸が急死し、一座は解散した。芳丸の息子の荒川小太郎が吉本興業の所属となり、小太郎の誘いを受けた2人も手見せを経て吉本興業に所属することになった。2人は家族とともに大阪へ移り、当時大阪で最も権威のあった寄席である南地花月と花月倶楽部をはじめとする吉本興業直営の寄席に出演した。

夢路いとし 2003年9月25日 没
喜味こいし 2011年1月23日 没